夏合宿、行ってきました。


 「故郷が二つに割れた   帰りたい場所はもうない


  幸せだった   あの頃だけが幸せだった
  大人になって   それでも生きていくだけさ


  奇跡   起きよ   願わくば   揃いたい
  ささやかな   普通


  故郷が二つに割れた   帰りたい場所はもうない


  もうほっといて   争うならすべて消えて
  ファミリーランド   手を振る先にもう誰もいない


  奇跡   起きよ   願わくば   揃いたい
  集れ   笑い声
  お願い   お願い   お願い」



 小谷美紗子さんの最新のアルバム「CATCH」の中にある
 「奇跡」という曲の歌詞です。
 別に行った先で後輩たちが二つに割れていたわけでも争っていたわけでも
 ないけれど、行った印象として頭に浮かんでくるのがこの曲だった。
 

 OBとして、後輩たちの合宿に参加する。
 それは―もちろん、単純に楽しむこともできるが―
 変化と喪失感を自分から感じ取りに行く、
 非常にマゾっ気に満ちた行事、行為だ。
 変化と喪失感。
 自分はもう彼らのように若くない。話す中身も違えば、
 話さなくとも自然と出てしまう時代の色に分けられる。
 精神がどうのとはまったく関係なく、大人という枠にはめられ、
 大学生の頃の、子供でも大人でもある一種の無敵感も、もうない。
 ひとつになって、まとまって輝く現役たちの様を見て、
 自分も楽しみつつもセンチメンタルを獲得しに行くもの。
 帰ることはできないし、そうしようとも思わないけれど、
 ただそこにまだあること、存在し続けていることを確認して、
 自分の糧にしていくもの。
 …そんなモノだと思っていた。


 


 …でも。
 そんなモノ、でもあったのだけれど、それだけ、ではなかった。
 変化と喪失感。それを感じる度合いが、それが向くべき方向が
 自分にだけでなく、広くあって、それを多く食らってしまうような感じだった。
 確かにキラキラ輝いているように見えるのだけれど、
 その輝きはひとつひとつが思い思いに点滅しているかのようだった。
 惑星のような大きな輝きではもちろんなく、
 広がる星屑、のようでもなく、都会のマンション群のような風景。
 個々に点ける蛍光灯の光。
 それは「通し」を終えた直後でも、そのように見えた。
 ひとつひとつの点が集合してできた円ではなく、
 視力の検査か視力改善のための何かの図のような、点がたくさんあるやつ、
 そんな感じだった。それをみているような印象だった。


 そこで感じたのは、期待外れや、残念、というような感情ではなく、
 「ここはどこだろう?自分はどこに来たのだろう?」という感覚だった。
 これは、浦島太郎のような大きく時を経て同じ場所でも
 違うところになってしまった、という感覚ではなく、
 本当に知らないところにきた不思議の国のアリスのような感覚。
 自分の中にある喪失感ではなく、見たものが何かを失ってしまっているように
 感じる、もしくはこれから多くのものを失っていくのではないかという感覚。



 そんなことをひとり勝手に主観で感じながら、
 それに対してどうすることもできないな、というまた別の喪失感を手にして、
 帰ってきたら冒頭に書いた曲が頭の中に浮かびました。