ふと思う〜2月16日

 他愛もない話は、難しい。というか、苦手だ。
 他愛もない話をする場合って、
 自分と相手(ひとりでも、複数でも)がいる中で、
 その場にはいない人や、その場には直接関係のない物事を話す事が多い。
 「あの人がこんなことをした」とか、
 「小学校からの友達が何をした」とか、
 「あのアーティストがかっこいい」とか…。
 話している相手に対して、
 「あなたはこんな人だよね」とか、
 「自分はこれこれこういう人間ですよ」
 っていうのは、なんだか重いしね。


 他愛もない話の中で一番頭の中を占めるのは、自分でも、それを話す相手でもなく、
 話題となる人や、物事の方だ。
 その次にその場にいる相手のことがあって、自分のことは、その次くらい。


 会話をしている場に、ネタとなっている当人がいる場合は、
 直接自分が言ったことがその人に伝わるから、
 何を言っても責任は取れるし、何を言うにしても、覚悟はできる。
 失礼なことを言っても、その場で謝ることができる。
 その場で、修正することができる。 
 その場で関係性がまとまっているから、なんとかなる。


 でも、その場に存在していない人、物事に対して話す場合は、
 知らない間に言ったことが捻じ曲がったり、ムダに大きくなったり、
 間違って届いたりする。
 自分が言った失礼なことが、知らない間に、知らない誰かを傷つける。
 当事者間でない話は、どんなに軽く話しても、
 そこには、なんともならない、自分の言ったことに責任を取れない
 可能性が常に潜んでいるから、
 慎重に言葉を選んで、最大限に気を使って話す。
 ここにいない誰かを、何かを傷つけないように気を使い、
 今話している相手が楽しんでいるかどうかを気にしてテクニックを駆使する。
 それでもう、いっぱいいっぱい。
 軽く話そうとすればするほど、軽い話をしようとすればするほど、
 自分の知らないところに自分の放った言葉がふわふわと飛んでいきそうで、
 頭を回して、そこにはただ疲れだけが残る。


 それはもう、「どの芸能人が好き(嫌い)」ってだけでも、
 そこからいろいろなものが大きく変化してしまう可能性だってあるから。
 テキトーに「あの人が嫌い」っていうだけで、人生は変わったりするから。


 他愛もない話は難しく、苦手だ。軽ければ軽いほど、頭を使って、
 ない技術を尽くして、不自然な形になってしまう。
 自分の心の闇とか、ダメな部分とか、あざとい部分とか、弱い部分とかを
 さらけ出した方が、自分がどう思われるとかだけで済む分、
 自分のことを自分で言って、それに自分で責任を取るっていうシンプルな形で、
 そっちの方が自分にとってはすごく自然、だったりする。


 まぁ、でも、そこで一緒に話している相手が楽しんでくれればいいから、
 自分のことなんて、どうでもいいんですけどね。
 そんなことは、どうにでもなる。


 …この言葉は、誰にどんな風に届いているのだろうか。ま、自分の言葉です。