ロストマン

 今年はいろいろなCDを本当に、お金の限られた中でよく買ったなぁ、と思いますが、何度も聴くものとある程度聴いて終わってしまうものと自然と分かれてきますね。どうも、らじです。「ユグドラシル」、「教育」、「MASTERPIECE」とかは何度も聴いてしまいますね。「シフクノオト」とかは良いゆえに何度も聴くのが怖くて聴けなかったりしますが。
 意味も無く栄にひとりで。ひとりで街を歩いていると落ち着きますね。モノが多い空気っていうのが好きです。まだまだ田舎に住みたいという気持ちにはなれませんね。で、ロフトでいろいろと見て回ったり、紀伊国屋書店で勢いでギターを弾けないのにギター弾き語りのスコアを買ったりしていました。一応手持ちはある状況だったので使いたい衝動に駆られるが、がんばっておさえる。
 昨日おとといの空気からは抜け出してきたものの、最近は落ちる波に入りやすいなぁ、と、まずいなぁ、と感じる。払拭できる何かがあればいいですね。落ちている場合ではないですし。上げの波に乗っていられるような、きっかけが降ってこればいいですけど、ダメなら作り出すしかないですね。

  • ふと思う

 歌うことで何かを表現するっていうのは、もちろん難しいし、怖いぞ。
 たとえば他の、楽器とかで表現しようとした場合、楽器が良くないとか演奏が良くないとか、それは表現が上手くできていないっていうことに繋がるだけですむ。表現うんぬんの段階での話が自然にできる。文章力とかも、自分自身が言葉にした、っていう時点で何故だかわからないけれどその人自身から離れて、表現がどうのとかいう話になってくれる。
 ただ、歌はなかなか自分自身から離れて表現になってくれないぞ、と思うわけですよ。何か表現していないで、ただただ自分っていうものが垂れ流しになっているかもしれない。自分が声をどこまで使えているか、っていうのを考えると、全然できていないようで不安になる。
 何かを人に表現する場合っていうのは、自分をできるだけ引いて、表現したいものを強く押し出すことで、なぜか結果として自分が大きく浮き上がってくるっていうのがいいことなのかもしれないです、と思ってもみたり。
 上手くまとまってないですけど、まとまる気もしないので、本当に、怖いぞ、と。表現したいな、と。垂れ流したくはないな。表現した上で垂れ流れるのが「らしさ」だな、と。