ふと思う〜1月11日

  • ぐるぐる回る

 人って、それほど人の目は見ていないんだなぁ。
 と、なんとなぁく。
 疲れている目と、気を張っているときの目と、そうでない、また別の目は、自分では変えているつもりでも、なかなかどうして、特に外に対して何があるってワケでもないみたいです。


 今日は、割と早い時間に、普段表では出さない死んだ目になってました。理由はよくわかりませんが。ま、人といる中で感じる孤独が、自分の横にぴったりとついて離れなかったんでしょう。悲しいかな、外には特に救いがないので、救いを求める術を自分が持っていないので、死んだ目をしておくぐらいしかありませんでした。そこにあるのは、寂しい再確認だけですけどね。



 でも、サークルの、合唱の練習となると、そこに誰がいるから、とかそういうわけではなく、そこに音楽があるから、活きた目にできてました。誰に、というわけではなく、音楽とか、やっている曲に失礼なので、活きた目にしてました。
 曲が呼ぶ形に、できればいいですね。自分が歌っているときに間違えたとき、申し訳ないと思うのは、誰かに、というわけではなく、曲に対してだったりします、最近。かっこつけている感じですが、結構、本当にそう思ってます。「ごめん、曲。お前はこんな奴ではないよね。」とか、そんな感じです。
 指揮者の方が自分よりもこの曲がどんな奴か、ってのを曲と話して知っていると思うので、それで、自分がその曲がどんな奴なのかより知りたいので、指揮者の話は熱心に聞きます。この曲はどんな奴です、ってみんながとりあえず同じ認識で、その日聴きに来てくださる方々に紹介できればいいですね。ひとりの人間に対してそれぞれの人がそれぞれ思うように、ひとつの曲にそれぞれの人がそれぞれ思うんだけど、そのままそれぞれが「この曲はこんな奴だ」ってバラバラに言ったら、混乱するだけですからね。
 もっと、“音楽さん”と話してどんな奴なのか知りたいし、“音楽さん”をより“音楽さん”そのまま、誤解のないように多くの人に紹介していけるといいです。かなりかっこつけていますが、ある程度、そう思ってます。
 ま、曲が呼ぶ形に。「この曲はこーゆー奴だ」って紹介するときは、私情、主観も入りますけど、その辺は、歌っている人たちの私情・主観をまとめて、聴きにきてくれる方々に紹介できればいいですね。



 そして帰り道、電車の窓に映る自分の顔を、自分の目を見たら、やっぱり、なんだか死んだ目でした。う〜ん、イヤホンから流れてくる音楽に身を任せて、でも、死んだ目でした。
 癒しって、どこにあるんでしょうねぇ。自分には、ないものなのかもしれません。
 「ひとりだ」っていうのは常に思っていて、それは当たり前だと思ってますけど、
 「孤独だ」っていうのは、どうにかしたいですね。ま、どうにもしづらいですが。



 …個は個でしかなくて。それぞれの考え方や気持ちはひとつにはならなくて。でも、それをひとつにしようとするから、そこからエネルギーが生まれて、それが面白い。



 と、昔っぽい感じで書いてみました。