いっそのこと(割と)具体的に毒を吐いてやろうか。

 私たちは合唱団にいるわけで。その団の中は見渡す限り誰もがみんな同じ学生の、学生団なわけで。自分が一番に求めるものが合唱でなくてもよい。それはそれで仕方がない。いってしまえば私も第一外国語第二外国なノリでいくのならば、合唱は第一音楽ではない。しかし合唱は好きで、音楽が好きで。だからこの団にいて、直接合唱とリンクしていない部分のこの団も大変好きで、そんな好きな団は合唱をするところで、そこにいる自分だから私は合唱をするのです。そこに練習の時間があり、練習の時間で頑張ってやっていこうとするのだから、私は自分で選んでそこにいるのだから、そのとおり頑張ってそこで合唱の練習をするのです。正直私は練習以外では乗り気ではないんですけど、練習の時間はそういうものだから、だいたいにおいて、名混と合唱、順番間違えた、合唱と名混が好きだから、という部分は確実にあって、そこに適応するように練習でやる気を出して、頑張って練習をするのです。それを私はこの場所でやるので、やる気があるので、自分で名混にいてよいと思うのです、いようと思うのです。
 少しシフト。誰かががんばって誰かが頑張らないとかはない。みな同じ存在なのだから、みな頑張らなければならないのだ。役職は頑張り度合いではなく、覚悟とか責任とか役割の区別とかの問題だ。みんなそれぞれ自分のポジションで最大限に頑張らねばならない。団長とか指揮者とかパートーリーダーとか、それぞれの中で最大限に頑張る。役職のない人間は頑張らなくていいのか。否。役職のないという自分自身のポジションで最大限に頑張らなければいけないのだ。パートリーダーが一生懸命伝えようとしているのならば受ける側も最大限に頑張って受け取らなければならないのだ。やるべきことやるべきでないことのいろいろな差はあるけれど、頑張る頑張らないなんて差はないのだ。だって自分ですべて選んだことだろう?好きでここにいるんだろう?ここのルールはわかっているんだろう?自分が選んだことならばそれを頑張るのは当然だろう?選んだ場所に、自分以外の何かがあって、そこにいろいろなルールがあって、窮屈さもあって、苦痛があったとしても、それを受け止めても好きなんだろう?
 より現実的にシフト。相互関係のお話。私の団では指揮者とかパートリーダーの方とかが前に出て頑張る。人に見られる立場だから気を張って、見る人のテンションなり何なりをあげようとする。じゃあ、前に出ている人たちはどうやってテンションを上げるのか?ここで整理。テンションをあげようといろいろ頑張る人を見てテンションがあがる。場合によっては下がることもある。じゃあ、前に出ている人が見ているのは誰か?…私たちだ。私たちも見られる立場だ。受け手であるとは思うが、見られてはいる。私たちも見られているので、見ている、前に出ている人のテンションやら何やらがあがるように頑張らねば。そんな心持ちでやれるだけやるべき頑張りを表に出さねば。何より、前に出ている人もこっち側にいる人も言い方は恥ずかしくなってしまうが、同じ仲間だ。仲間が仲間を盛り上げあうのは当然じゃないですか?前に出ているとか、指示出しているとかは、役割の差だけで、区別してよりよい形にしているだけです。身分が違うわけでもない、差別するようなことをしてはいけない。まぁ、どこで何するのも自由ですけど、やるべきことが見えてるときはそのやるべきことに真摯に一緒に対応しましょうよ。


わかります?ちょっとどころではないぐらいごちゃごちゃしてますけど。簡単言うと、「周り見て考えて頑張ろうよ」ってことです。短くするとそうです。