本屋

 私は本屋が好きだ。だが、本屋が好きなのと同じ理由で私にとって本屋は困りものである。
 私は本屋で長い時間過ごすことができる。体力さえあれば、精神的には本屋に住んでもいい、住むことができるくらい本屋で長い時間を過ごす自信というか、そんな心持ちはある。本屋でテレビを見て、本屋でラジオを聴きながら暮らせるぐらいの意気込みだ。暇な私にとってとりあえずは家の中にいるような引きこもり状態ではない時間を長く過ごせるのだから、それは私にとっては非常にいいことである。だが、多少忙しい、また用事があるときなどにフラっと本屋によってしまったときは、この本屋の効果は私にとって大変困ったものになってしまう。どこかの温泉が水道水を使っていたどころの話ではないくらいの困り者だ。昔で言うなら、トーニャ・ハーディングくらいの困り者だ。本屋による自分が悪くて、そっから自分もさっと出て行ければいいだけなのだが。
 ではなぜ私は長いこと本屋にいるのか。なぜ本屋を推理探偵が推理するときのようにぐるぐると動き回るのか。おそらく私はただ単にたくさん本があるところに長くいようとは思わない。図書館とかにも長くいる気はない。
 私が本屋に長いこと入り浸るのは、そこがまさしく「本屋」だからである。本を売っているところで、私が本を買う人だからである。経済学部的に言うと、供給者と消費者である。…とここまでいろいろ書いてきたが、ざっくり言ってしまうと、ただどれを買うかで長いこと悩むだけなのである。優柔不断で、また一気にたくさん買うことができるような経済力を持っていないから悩むのである。どれを買うか、また買うか買わないかといった点で、私は本屋との駆け引きを、戦いを長いこと続けているのである。それは殴りもせず言葉も発さずただただ紙資源とのガンの飛ばしあいという、実に文科系な戦いだ。ある種宝くじを買っているような気分でもある。自分でいろいろな本を物色した後、選んで買った本が予想通り面白かった場合、それはもう自分の手柄で、どう明らかに手を使って入れていようがそれは自力でのゴールである。相手がミスして打球を見逃し落としただけでもそれは自分のヒットである。長いにらみ合いの末買った本が面白くなければ、それはもう本屋のせいである。私は本屋に負けたのである。コンサートグッズ以上のぼったくられた感を感じるのである。
 だから私は本屋で長いこと、無い金で一冊自分に適当な本を買うために、無言で本屋と取っ組み合うのである。本屋はアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラだ。
 というわけで今日は眺めてて、「元・阪神」(何で阪神を離れていったかいろんな人のエピソードの本)っていう本の表紙(江夏豊のワンショット)に吸い込まれそうだったけど、別に阪神ファンではないことに気づいてその呪縛から脱出するのでした。本屋の滞在は1時間強でしたとさ。(それで松尾スズキって…)