受け止めるとか受け止めないとか

 人はよく「自分の悩みや考えを受け止めてほしい」と言う。その悩みを、考えを吐き出すのは受け止めてくれそうな人、信用できる人だ。そこまでは別に間違いも何も無い。
 では、どんな人が悩みや考えを受け止めてくれて、そういう面で信用できる人なのだろうか。「受け止める」という以上、その人は受け身な雰囲気を持っていなければならない。変に、強引に考えを押し付けてくるような人だと、出す側も「受け止められた」とは感じづらいものがあるだろうし。しかしそんなことなら受け止められるよな、と思える人はもっと多い気もする。
 悩みや考えを受け止めてほしいという人たちは、単に受け止めてほしいだけではないような感じだ。「受け止めてほしい」のではなく「受け止めに来てほしい」のだろう。受け止める側は実は受け身ではなくて、自分から働きかけに行かなくては、受け止められるような人にはなれないのだろう。受け止めてほしい人には、受け止めてほしいと思いながらも、自分でそういう場を探すことの無い(もしくはできない)人なのだろう。
 ようするに、受け止める側は、受け止める体勢でいても、受け止める役には成りえないんですね。こっちが投げて、向こうが打ち返してきたものをもっかいこっちがキャッチしにいく、みたいな感じなんだなぁ、と。ピッチャーの球を受けるキャッチャーではないんだな、と。
 もっと単純に考えればそうですよね。考えや悩みを割と吐き出す場がある、吐き出すことのできる人は「受け止めてほしい」なんて思いませんしね。場が無いから、自分でそこに向かうこともできないから「受け止めてほしい」と思うんですよね。
 吐き出す側から見て、受け止めてくれるような人だったのが、受け止める姿勢・心持ちは変えずに持っていても、「受け止めに行く」のをやめてしまうと、その人はもう受け止めてくれるような人ではなくなるんですね。
 すいません、ごちゃごちゃして、まとまってもいなくて。正直に言いますと、もちろんこれは僕自身の話で。でも別に具体的なエピソードがあったわけでもないですけどね。
 自分で見てて、自分の側の、単なる言い訳ですしね。